本にも運命を感じる時がある。
『紙の民』は、こういう本に出会いたくて私は読書をしているのだと気付かされた一冊。
第1部
人々は悲しみの膜で覆われている。表紙のように、淡い青色の。号泣するような激しい情動ではなく、そっと、優しく日常に付き添う悲しみ。
ささやかに紙で指を切られるように。
ところが主人公のひとり、フェデリコ・デ・ラ・フェはこう言う。
上空から土星が我々を監視していて、その悲しみを商品化していると。 p58
だから人々は、悲しみから逃れることができない。
自由意志のために、土星に宣戦布告するフェデリコ・デ・ラ・フェ。
- ネタバレあり。 -
■:読みながらのメモ
■:読んだ後おもったこと
■:読んだ後おもったこと
土星は何を示すか?
本物の土星と思って読んでも面白いが、もっと意味が込められてそうな存在。
上空から全てを見下ろす、人々が壁や布で隠しても見通す……
最初は読者のことかと思ったが、
作品の書き手を表すのかもしれない。
土星は初回の戦闘でカビを街中に広げるが、
そういうことは我々読者にはできない。
構成
たくさんの短い節で構成される。節ごとにその文の主観になっている人物名がタイトルにつく。
(「土星」は客観視点。だがこの法則も固定されてはいない)
- 変化する段組み
- ●と-の記号
- ロテリア(メキシコのビンゴカード)の絵
- 手話みたいな、何かを表現している?手のイラスト
- 黒く塗りつぶされたテキスト、または空白、
打ち消し線
さまざまな表現が織り込まれている。
たとえば、土星の意識を散らすためフェデリコ・デ・ラ・フェの仲間が二分する。
仲間は「これで土星は片方しか見ることができないだろう」と考えるが、
段組みもそこから二分して、読者はどちらの行動も追うことができる:
“サンドラとEMFの女たちはエルモンテを囲む畑に灯油を撒き…“
“フロッギーが戦闘のトラックを運転し、全員がそれに続いた。”これこそが土星の行動。
あるいは、塗りつぶされた真っ黒な紙面から、感じることができるかもしれない。
母親が「小さな預言者」と呼ぶ障害児の、瞳に広がる漠とした宇宙を。
ベビー・ノストラダムス
後にこの黒塗りの宇宙は、登場人物の思考を隠す保護層として再登場する。
するとこのページを読み直した時には不思議なことに、
この裏にはどんな隠されたテキストが存在するのかと、
そう思って黒塗りを見る。
読者の意識はそんな風に変貌する。
小説の中の人生
土星戦争から何年も経ち、書かれることのなかったこの本のあとがきのなかで、フロッギーは生き残り、かなりの年寄りになっていた。だが、戦争と小説をくぐり抜けてきた歴戦の兵士 ベテラノ という肩書きをもってしても、市の条例と郡の管轄を逃れることはできなかった。 p43「戦争と小説をくぐり抜けてきた」 …小説を? [a1]
↓
何気なく書かれてるけど、読み返すとこの文章すごいなー。
実際に作者のあとがきはこの本にはない(訳者あとがきのみ)。
「あとがきの中で生き残り」という部分は、
まさに登場人物の世界を表現していると思う。
そしてこの部分は、「あとがき」を前半部分に挿入するための、
前置きとしても機能しているという…。
うーん…巧みだなあ。
土星でさえも、文章のすべてを聞き分けられるわけではなく、… p64「文章を聞き分ける」という表現。 [a2]
[a1] も [a2] も、この世界は小説に書かれた世界だ、ということを意識させる文章。 >デス博士
そしてp46、フェデリコ・デ・ラ・フェの表とセリフ:
「土星は俺たちをクライマックスに持っていって、そのあと結末に持っていきたいわけだ」表はシナリオ作成本でよく見かけるものだろうか。
「緩急をつけながら物語をクライマックスへ持っていきましょう」
p80、ラモン・バレート
彼女を思い出して寂しくなる日には、彼はティッシュペーパーを口に詰め込み、新聞の日曜版をくしゃくしゃに丸め、夜にはその紙を膝の間に挟んだ。好きな文章。
第2部
土星は何を示すか? 2
p114にずばり答えが出てきた。「土星って何なんだ?」おいおい、作者出てきちまったぞ。
「偽名だよ。隠れ蓑に使う名前だ」
「じゃあ、土星の本当の名前は?」
「土星の本名はサルバドール・プラセンシア」
ということは、「土星は鉛を見通せない」という特徴は、作者がそう決めたってことなんだろうか。
土星の放射物質でそういうのがあるのかな、なんてちょっと考えてた。
小説の中の人生 2
p113、スマイリー…土星が墜落するときがすべての幕切れになることも。でも、銀河とか衛星が落ちてくるとか心配していたわけじゃない。俺が考えていたのは自分の存在のこと、この小説での俺の居場所のことだったから…登場人物は、自分たちが小説の中にいると理解している。
↓
リトル・メルセドリトル・メルセドはなにも言わなかったけれど、実はドル札の中にナイフがあったと知ってびっくりした文章。本人が隠してしまえば(文章として書かれなければ)、我々読者は何も知ることができないのだな、と気づいてはっとした。
「フロッギーが折り畳んだ一ドル札二枚をわたしにくれたところで…」
フロッギー
「俺は賞品にもらった飛び出しナイフの小さい方をドル札で包んで、あの子にあげた」 p58
これは後々フェデリコ・デ・ラ・フェが鉛作戦を決行した時の、土星の状態と通じるものがある。
それと、「書かれなければ知ることができない事象」があることから、やはり読者はすべてを見通す土星ではない、というヒントにもなってるかも。
物語内作者 vs. 登場人物
首の皮と無精ひげの上で刃を引き、やつのインクを滴らせるんだ。(中略)どろっとした生温かい文章が床を汚して、決まって六層のペンキの下に再び現れる。どんな小説よりも長く残るものになるだろう。 p117前のページ、熾天使と修道士の話で血をインクに例える下地あり。
六層っていうのは何の例えだろう。
愛と戦争ではすべてが許されるって話は聞くけど、その格言は、愛と戦争が同時に起こっている時は無効だ。(中略)女が男を捨てた時には、同情の手を差し伸べるべきだってことは否定できない。メルセドがフェデリコ・デ・ラ・フェを捨ててから十年待って、土星はようやくフェデリコ・デ・ラ・フェのプライバシーに立ち入ることにした。俺も同じ礼儀を守るってだけだ。 p118妻を失う前から、土星は見てるけどね。
10年の月日が経つのに、見開きひとつしかかかってないけどね!
うむ……。
「違う。俺はスマイリーだよ」かわいそうに。
「スマイリー?」
スマイリーなんて特徴的な名前つけてるのに、覚えとこうよ作者さんよ……。
悲しみの商品化、この本にできるだけ色んな悲しみを詰め込んで、売ろうとしてるのか?
傷心の目録
傷心の目録ひとついくらで悲しみの数を数え上げるなんてことは、あまりにバカバカしく、あまりに対象化して捉えすぎており、わけがわからないが泣けた。商品化ってこういうことなんだな。
(中略)
彼らは計数機を片手に一ページずつ調べ上げ、悲しみが登場するたびにカチリとボタンを押し、幸せの計数には表を使用した。 p131
愛すべき気持ち悪さ
p140、土星明日、きみの屋根を壊してみせる。なんてキモいのか。素晴らしい。
きみの台所の椅子はまだ頑丈なのに、僕の椅子のほうはおがくずの山になってしまった。スプーンが塵になってしまって、クローゼットのなかは土だらけ、着た服が糸になってしまうという思いを、きみにもしてほしい。きみのすべてが壊れて、ばらばらになること。きみが触れるものすべて。窓の下枠、きみのドアに続く階段、すべてが崩壊してしまうこと。そしてきみが彼に触れると、彼の骨は折れて、破片が脾臓に入って、肺にも入って、骨盤の骨もぽっきり折れて、漏れる血は錆びつく。彼が腐り、朽ち、消えていくこと。
失恋により、自分の世界のすべてが崩れていく。エル・デラマデロ。
それ自体は純粋な気持ちから理解できる。
しかし彼は、それを彼女にも味わってほしいという。
その怨嗟、執着心。
私はこういう気持ちの悪さが嫌いじゃない。
正直土星はみっともない男だと思う。
(自らそうさらけ出しているし)
相手に反論のできない場で話を展開し、他の男のところに行ったとくどくど、何ページも怨嗟の声を綴り、自分に都合の悪いこと(新しい女)は最後まで黙っている。
だけどそのみっともなさを、私は不思議と愛しく思う。
異性と別れた後、「女は切り替えが早い」とか巷では言うが、はっきり言って冗談じゃない。
私も彼と似たようなものだ。
p159
他の男のもとへ去った女、リズの頼み:「わたし抜きでこの本をやりなおして」
土星:
売女め
第3部
タイトルページが再び挿入される。謝辞からリズの名が消える。土星はリズの頼みを聞くのだろうか。
土星:
土星の節は空白。
…そして復帰:
公式の測量によると、サンディエゴは一週間前と比べて半マイルもロサンゼルスに接近していた。機械の作用とはこのように、都市と都市を結びつけるものである。 p178キカイガメが移動してるのかと思ったら、大陸が移動してる?
父親思いの女の子
p210、父親を守ろうと保護層(黒塗り)を広げるリトル・メルセド。純粋さに泣ける。
売女
p221、土星が売女と呼ぶ浮気女、メルセドの節が登場。捨てた娘の死を嘆く姿には、悲しみと同時に侮蔑の心が渦巻く。
新しい男と暮らす幸せな日常に苦味を感じる。
しかしこれは土星が書いているのだから、もちろんそういう心理になるよう仕向けて書いてる部分もあると、私は思う。
芝生
土星は待った。芝生に水をやった。彼女は現れず、彼はくわえた釘を庭に吐き出した。栗のトゲだらけの殻……ガラスの破片を芝生にまんべんなく撒いた。その週が終わるころには、芝生はきわめて危険になり、……靴下を血で染めるまでになった。 p242、一部略彼女が自分の家に来るとしたら、通るはずの芝生。
彼女が来ない、今日もまた来ないと危険物が増していく。
君は彼女に思い知らせてやろうと、彼女を傷つけようとしているけれど、結局自分が傷ついている。
ベビー・ノストラダムスの闇
p245、土星の絵。
私はこの絵を見て号泣してしまった。
他の人からすれば「なんで?」と思うような所かもしれない。
私は孤独を感じやすい人間だ。それに、人はみな孤独なものだとも思う。
だから別に解消する気もないし、一生付き合っていくつもりでいる。 >p271.自分の一部
私には他の人の心の中は見ることができないし、逆に私が何を感じ、何を考えているか、他の人にはわからない。闇の中で生きているようなものだ。
ただそれでも、内にこもらず、何とか理解しあおうとすること。
その姿勢が、人の根っこにある大事な部分だと思っている。
私が涙を流したのは、土星と、「同じものを見ていた」という実感がわいたからだ。
ベビー・ノストラダムスの闇に宇宙を見て、そして土星もそれを見ていた。
それがこのページから伝わってきたからだ。
思いの共有、つながりの実感。
そういう感覚だと思う。よくあることじゃない。
だけどまあ、孤独ぶりたい人間らしく、こうも付け足しておく。
すべては私の錯覚かもしれないけれど。
火
火で悲しみが消えるはずだって思い込んで、あなたが火傷してしまった日のことも書いたらどう。わたしはあなたを洗って、ガーゼをつけてあげた。「きみはいい人だし、優しいね。僕と結婚するなんてどうかな」ってあなたは言ったわ。そしてわたしは「いやよ」って言うしかなかったのよ。 p254、カメルーン悲しみを癒やす火。フェデリコ・デ・ラ・フェの火。ああ…。
2部から土星の元を去っていった女性の節も多くなった。
「彼女たちにも紙面で反論の機会を与えているよ」って、弁解の余地を確保するために設けてるような気もする。
でも、やっぱり書いてるのは土星だから、そこここに土星のコンプレックスを感じる。
(背が低いとか皮かむってるとか、わかった。わかったから。)
やけになってる?
(わざわざこんなこと書いて自分を痛めつけるのは、火の治癒と同じ理由かもしれない)
サムソンの物語
p262 サムソン - Wikipedia人死にすぎだろう…。
p271 自分の一部
暴君なのに
なぜなら、つまるところ土星は暴君であって、物語の展開を思いどおりに操っているからである。(中略)だが、カメルーンはギャング団でもなく軍隊でもなく、一人だけであった。いとも簡単にアフリカの断崖から弾き落とされた。 p257、カメルーン土星は物語を思い通りに出来るのに、悲しみから抜けだそうとはしないんだね。
彼女と元通り暮らすことだってできるのに。
p276.10-12
ちがった。土星も本当はそうしたかったんだね。この本は彼女のために書かれていて、彼女自身の体で、だからここで土星が想う彼女は紙の民なんだ。
でも… p276.15
ひどい事言ってごめん。
p276.-1
涙を流すのは、この本を読む間だけにしよう。
●
本の外へ。
上空から見たパラソルの形。
何も傷つけることのない芝生を歩いて行く父娘。
何も傷つけることのない芝生を歩いて行く父娘。
サルバドール・プラセンシアはこれがデビュー作とのこと。
一冊目からこんなにすごいものを生み出してしまったら、次は一体どんなことになるんだろう。
本当に素晴らしい読書体験だった。
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Created by Yuki Ariga
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