2015-08-03

『芋粥』芥川龍之介 ★5


あらすじ

主人公「五位」は取るに足らない存在である。
上からも下からも存在を軽んじられ無視され、バカにされ笑われ、だがそれをくつがえす意気地もなく、ただ耐えている。
そんな彼の支えになっていたのは「いつか芋粥を飽きる程食べたい」という欲望であった。

ところが、ひょんな事から願いが叶うことに。
藤原利仁が、「芋粥に飽きたことがない?」とやはり嘲笑含みに、たんまり食べさせることを約束したのだ。

利仁は、五位を京都から敦賀まで連れだす。
長い距離を乗り切ったあと、館にて芋粥の席が設けられることになった。

だが器いっぱいの芋粥を前に、五位は食欲をなくしてしまう。
彼は以前の哀れな自分を思い出し、だが欲望を一心にもつ幸せ者だった、と振り返るのだった。



感想

景色の描写が味わい深く、とても美しかった。
これだけで読んで良かったと思う。

また、五位のなんとも言えないキャラクター。
みすぼらしく惨めだが、それがいじらしい。同情をひくというか、庇いたくなるというか。
ふつうおどおどしてばかりのキャラには反感を抱きそうなものだが、五位に対して愛着がわくのは、表現の力なんだろうなあ。

結末については、自分なりの考えがあったのだけど、ほかのレビュー(広岡威吹の作家ブログ)にも納得。
「欲望から解放された希望ある終わり」と「欲望を失い惨めな一生」、真逆の結末が生まれる。
まず私の解釈から書いてみる。



夢が叶っても嬉しくない

夢を支えに辛い仕打ちに耐えてきたのに、それがひょいっと叶ったら、じゃあいままで耐えてきた自分はなんだったのかと。

折角今まで、何年となく、辛抱して待つてゐたのが、如何にも、無駄な骨折のやうに、見えてしまふ。出来る事なら、突然何か故障が起つて一旦、芋粥が飲めなくなつてから、又、その故障がなくなつて、今度は、やつとこれにありつけると云ふやうな、そんな手続きに、万事を運ばせたい。

自分の力で叶えていない事も大きいのだと思う。
が、そもそも叶えようと動いていたかというと、そんなことはない。
私には、この欲望は「叶えるためのもの」じゃなくて、「現状に耐えるためのもの」に思える。

夢が必要なくなった?

気になったのは、狐のエピソードに続くこの部分。

自分と利仁との間に、どれ程の懸隔があるか、そんな事は、考へる暇がない。唯、利仁の意志に、支配される範囲が広いだけに、その意志の中に包容される自分の意志も、それだけ自由が利くやうになつた事を、心強く感じるだけである。

まず、利仁の支配地域に入ったという環境の変化。
狐(自然)も恐れをなすほど、ここでの彼は「王」である。

それにつられて五位は、王の意思内という制限つきで、「自由がきくようになった」と感じている。
辛抱に辛抱を続けてきた今までの人生からすれば、これは大きな変化だ。
(そのあと、阿諛あゆ…おべっかはこのような時自然にわくものだから、今後五位がそうしても、読者はみだりに勘ぐるべきではない、と注記がつくのも、「変化した」事を補強するように思う)

さっき「現状に耐えるための欲望」と書いたが、それなら「自由がきくようになった」ことで、耐えるだけでなく、能動的に動く選択肢も増えたのではないか。
耐え続ける必要がなくなるのなら、欲望は、その役目を果たし終えたといえないか。

耐えるための夢

そんな風に考えるのは、最後に出てくる五位が、不幸せには見えないからだ。
彼は満足感も得られなかったし、欲望も失ったが、どこかさっぱりとして感じられる。

「芋粥を飽きるほど食べたい」という願いは、辛い現状を耐え続けるために必要なもの。
だが逆にいえば、「叶うまで耐え続けなければならない」。
現状に縛りつけるものでもあったのではないか。
五位なんて自ら叶えようと動いていたわけでもないのだから、なおさらだ。

彼は欲望を失ったけれども、その枷から解き放たれたとも思えるのだった。



別解: 残酷な終わり

というわけで、五位に変化が起きたと仮定して、欲望の役割と合わせて考えた↑の解釈。
私は五位に未来が生まれたと感じたのだが……

彼は、この上芋粥を飲まずにすむと云ふ安心とともに、

最後に五位は、「欲望を満たさずに済んで、ほっとした」のがわかる。
できることなら欲望を持ち続けたいと望んでいたのだ。
そして前半のこの部分。

人間は、時として、充たされるか充たされないか、わからない欲望の為に、一生を捧げてしまふ。その愚を哂わらふ者は、畢竟ひっきょう、人生に対する路傍の人に過ぎない。

「欲望に一生を捧げる人の話である」ということ。
じゃあ解放されたという解釈は埒外で、やっぱり一生変わらなかったのかな……。
支えの欲望を失い、しかし耐え続ける選択しかしないのなら、五位はこれから先どうやって生きていくのか。

正直、がっかりしてしまった。
五位にじゃない、人生の残酷さに。



さらに別解: 狐の示す道


「狐も、芋粥が欲しさに、見参したさうな。男ども、しやつにも、 物を食はせてつかはせ。」 利仁の命令は、 言下ごんかに行はれた。軒からとび下りた狐は、直に広庭で芋粥の馳走に、 与あづかつたのである。

「芋粥なんてこんな狐でもありつけるのだ」
五位に欲望のちっぽけさを意識づける部分。

これが以前を振り返る場面に係り、「欲望の大小なんて意識もせず、ただ一心に欲していたあの頃は本当に幸せだった」となる。

しかし、ダメ押しで五位にショックを与えてないか?
最後にこれって結構ひどくない?

その割に、くしゃみをする五位からは悲壮感を感じないというか。

もしかしたら、もうどうでも良くなる、吹っ切れた、そういう心理が働いたのかもしれない。
ここでまた「欲望からの解放」の登場である。解放させたがりで申し訳ないが。



もう一度、ここまでの心理を簡単に考えてみる:
芋粥を飽きるまで食いたい!敦賀まで思わぬ遠出となったがいよいよ叶うぞ!あれ、こんな簡単に叶っていいのか?一生をかけた魂の願いだぞ?もっと苦労や挫折をして、やっとこさ叶うってならまだしも……不安うずまく中、意に反して恐るべき量の芋と人員が用意され支度は整っていく、嫌だ、食べたくない、簡単に願いを失うなんて嫌だ、ああわざわざこの為に敦賀までのこのこついて来た自分はアホだろうか、情けなさを嘆くも芋粥は待ってはくれない、好意を無下にしちゃいかんと無理矢理飲み込むも嫌だ、満腹になりたくないのだ、そこへ狐登場、助かった…!と思えばヤツも芋粥を食べ始める、自分の願いとは一体……ああ、余計な事を知らずに生きてたあの時は幸せだった、

そのつづきは……:

  1. これからは望みもなく、惨めな一生を過ごすのだろう。
    (欲望失う/人生に耐える)
  2. 満腹は免れた、欲望への一心さは失われたが、細細と同じ望みを抱き、耐えてゆこう。
    (欲望もつ/耐える)
  3. また別の望みが持てるだろうか、そうして辛苦に耐えてゆこう。
    (別の欲望もつ/耐える)
  4. もうどうでもいい、絶望しかない。
    (欲望失う/耐えない:死)
  5. もうどうでもいい、欲望にそうこだわる必要もあるまい。
    (欲望失う/耐えない:吹っ切れる)

これ以外にも考えられるし、両立や中間項もあると思う。

例えば2から派生、
「欲望への一心さは失われたが、細細と同じ望みを抱こう。利仁の側にいれば前ほど耐え続ける必要もないかもしれん。そんな自分にはお似合いか」
(弱い欲望でちょっと耐える)
というような。

欲望を持ち続けたい心と、欲望からの解放は両立するのかもしれない。

『地獄変』でも解釈が分かれるような仕掛けを使っていたが、この作品もそうだったりするのだろうか。
考えれば考えるほど変容していく。
なんだこれは、のほほんとした見かけなのにとんでもないな!と眉を寄せつつも、楽しい読書でありました。



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