春暁
春眠不覺曉 春眠暁を覚えず「春眠暁を覚えず」っていいよなー…
處處聞啼鳥 処々啼鳥を聞く
夜来風雨聲 夜来風雨の声
花落知多少 花落つること知る多少
春の眠りでは朝が来ても気付かない
あちらこちらに鳥が鳴くのが聞こえる
(そういえば昨日の)夜は雨風の音がした
花はどれくらい落ちたのだろう
この「夜来風雨の声」っていうところが特に。
「処処啼鳥を聞く」でほのぼのしてたところに、
サアーッと、夜の雨というドキッとする句がきて、
最後は点々と落ちた花弁の色のイメージ。
最初に読んだのはたぶん中学生の時だけど、
情景があまりにも綺麗だったので記憶に残っている。
詩の力ってすごいなあ、と思った。
陶淵明
漢詩の話を父にすると、陶淵明(トウエンメイ)という人を教えてくれた。
さっそく検索してみると、
松岡正剛さんの千夜千冊に取り上げられているのを発見:
872夜『陶淵明全集』陶淵明|松岡正剛の千夜千冊
49歳のときの陶淵明に『形影神』という、とんでもなく大胆奇抜な詩があった。「形」と「影」とが「神(しん)」をめぐって問答をしでかすという内容だ。形は肉体、影は精神と見立ててよいが、そういう解釈はともかくとして、言いっぷりがいい。
その後、詩の紹介があり…
大鈞は轆轤(ろくろ)のことである
なるほど、そうなのかー。
父がこの句を指して薦めてくれたのかはわからないが、
こんな気持ちでろくろを回していたりもするのかな。
さらに、『形影神』についてはこちらもわかりやすかった:
形影神(陶淵明:自己との対話)
面白いなあ。そう言ってくれると、なんか気が楽になる。
閑情賦
千夜千冊の最後にて官能山水と紹介されている詩。理想の女性への思いを綴ったもので、
このあと、詩は襟になって香しいものに染み、帯となってその腰を締め、眉墨となって視線となり、靴となって素足に添いたいというふうに、しだいにきわどくなっていく。とある。
この部分を読んだ時に思い浮かんだのは、
「時代は変わってもエロは共通かー」といったような、
例えば「地獄先生ぬ~べ~」で男子が女子のパンツになる話だったりするんだけど、
閑情賦:陶淵明のエロティシズムを読むとその先こそが肝なのだと思った。
願在衣而為領
承華首之餘芳
願わくばそなたの衣の襟となって、首の香りをかいでみたい
だけど、
悲羅襟之宵離この調子で、
怨秋夜之未央
悲しいことに衣は宵に脱ぎ捨てられ、長い夜を耐え忍ばねばならぬ
「○○になって、あなたと共にいることができれば。だが、それは叶わぬ望みだ」
という句が続く。
考所願而必違
徒契闊以苦心
擁勞情而罔訴
歩容與於南林
棲木蘭之遺露
翳青松之餘陰
わが願いはどれも満たされることがない、いたずらに身を切られるような辛い思いをするばかり、悶々とした思いを抱いて、南林に徘徊しては、木蘭の露の傍らに身を休め、青松の影に身を隠そう
斂輕裾以復路
瞻夕陽而流歎
歩徙倚以忘趣
色慘悽而矜顏
裾をからげて帰り道につき、夕日を眺めては溜息をつく、我が歩みはとぼとぼとして行き先もわきまえず、顔色は優れずして涙さえ流れるのだ
恋焦がれることの苦しさを映し、
漂う情景は狂おしく物悲しい。
そしてこのように綴られる。
徒勤思以自悲この句がすごいよ。
終阻山而帶河
迎清風以去累
寄弱志於歸波
いたずらに思い煩ったばかりに、そなたとはついに山河に隔てられてしまったようだ、もう思い煩うことはやめて、心中の悩みを風に乗せて吹き払い、惰弱な心を東流する川に流そう
あれこれと煩悶するからこそ、彼女とこんなにも隔たりを生んでしまった、と。
結びは、こうした思いすべてを打ち明けて清い心に戻ろう、となるのだが…
私はこの手放された情念が、
文字となりどくどくと紙面を漂う景色に、
かえって心惹かれるのだった。
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