2013-11-28

ナニごともまるだしは恥ずかしい ― 『裸体とはじらいの文化史』

裸体とはじらいの文化史―文明化の過程の神話〈1〉 (叢書・ウニベルシタス)

ちょっと知りたいことがあって3章あたりまで読んだのだが、初っ端すごくびっくりした部分があった。
古代ギリシアのオリンピックにて、選手(男性)はみんな全裸で出場したのだけれど、

競技の練習の際に包皮がずれぬよう、男たちは一本の紐で亀頭の上に伸びた包皮を前の方で縛ったため、それはソーセージの端のごとく見えた。 p12

…ええええええ。縛るって。まじかー。
古代ギリシアでは、皮をしっかりかぶったペニスが良しとされたらしい。

壺絵ではサテュロスのような好色で破廉恥な者だけが、露出した亀頭とともに描かれ……
人間の場合は勃起したペニスですら包皮が――幼児のごとく――尖った形をして突き出るように覆っている。

包皮が短いのは、度の過ぎた性生活の印か、マスターベーションに耽ったためだと思われていた。
後世ユダヤ人らがペニスに割礼を施されてギムナジウムに姿を見せた時の気まずさを、われわれは想像することができる。 p12

へええええ。
割礼したユダヤ人は、皮を延長する手術を受けないとオリンピックに出られなかったそうだ。
包茎手術と言ったら今と意味が真逆になるんだろうか…
日常でも飲みの席でも絶対に披露することがなさそうな知識なんで、ここで披露してみた。


恥じることのない肉体

この第1章は、ルネサンス以降、理想化された古代ギリシアについての「理想的でたくましい肉体をもつ彼らは、恥ずかしがることなど無かった」という主張を覆すためにあるようだ。

冒頭のオデュッセウスの話でも、「神々しい肉体をもつオデュッセウスが、なぜ乙女たちの前に自分の体を晒すのを恥ずかしがったのか?」という疑問が登場する。
私などは「そりゃー恥ずかしいだろ」と考えてしまうんだが、古代ギリシアを理想化してる人たちからしたら「神のごとき肉体なんだから、なにも恥じることはないわけで、恥ずかしがったのには何か特別な理由があるに違いない」といった考え方になるようだ。

なるほどなあ。


創世記と恥

私が知りたい部分も近いところにあって、『創世記』で禁断の果実を口にしたアダムとイブはイチジクの葉で腰を覆うが、そのとき生まれた「恥ずかしい」という感覚について。
無自覚でいられた頃は陰部まるだしなわけで、それが理想の世界と考えられてるんだよなー。

理想人(まるだし) → [原罪] → 人間(はずかしい)

「恥ずかしい」という感覚は人間(罪を犯した)の持ち物。罪の印でもあるんだろうか。
むしろ古代ギリシア人の理想化と同様、

「ふつう、人間には恥ずかしさがある。」が…
「神の側にいた頃は、恥ずかしいと感じることなどないほど、全てが理想的な時代だった。」

と、ベースを逆に考えたほうがいいのか。
でも知恵の実を食べて目が開いた(自意識が芽生えた)とたんに恥の概念を抱いたって、なんだか示唆的だね。

そしてこれは神話上の話で、実際は古代ギリシア人が股間を見せるのを恥じたように、
もうとうの昔から、一人残らずわれわれの目が《開いて》おり、自分の裸を恥ずかしく思うのは、この裸が歴史的にどう定義されているにせよ、人間の本性なのである。命の木からは、すべての社会の成員が遠く離れてしまっているのだ。 p4
ということを本書は示していく。



メモ

包茎の歴史 豆知識
アダムとイブの恥部を隠した「イチジクの葉っぱ」はなぜ落ちなかったのか
アダムとイヴ - Wikipedia
知恵の樹 - Wikipedia

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